――クリスマスイブ。
それは、寒い冬に訪れる暖かい一夜。
そういう意味合いもあって、いつもならパソコンを叩く無機質な音が支配する職場も、まるで子供の遊び場のように笑い声が飛び交っていた。
僕は、このスーパーの在庫や発注もろもろを管理するのが仕事だけれど、今日ばかりは店内の装飾や子供向けのイベントなども手伝った。
 人一倍の働きをして疲れてはいるが、そんなことはどこ吹く風。笑顔で一日を終えようとしていた。
 ……21回目のクリスマスイブ。
(リナ、待っていてくださいね。仕事が終わったらすぐに帰りますから)
 まるで時計の中に愛するリナがいるように微笑む。もう八時になるところなので、タイムカードを押す準備を始める。
――ああ、早く帰りたい。一秒でも早くリナの元に走っていきたい……。
「おろ? 優(ゆう)っち、ご機嫌じゃないの」
「あ、島(しま)さん。どうも」
 同じようにタイムカードを押そうとしていたのは、先輩の島宮(しまみや)さんだった。苗字の佐竹ではなく、名前で呼ばれるのは島さんだけだ。
「このクリスマスにご機嫌ってことは……優っち彼女いるのか?」
「あ、はい。すいません、言っていませんでした」
「……マジかよ」
「はい、本当です。だから、早く帰りたいんですよ」
「……優っちみたいなお堅いヤツに女……。仲間だと思ってたのにぃ!」
 ポカポカと叩かれる。
「ははは。……確かにリナは、僕にはもったいないですよ」
「リナは、口は悪いけど根は優しくて、小さくても背伸びをしてがんばってくれるんです。愛くるしくて胸が痛いほどなんです。この間なんて、残業で疲れていて玄関で寝ちゃったんですけど、起きたら布団が掛かっていたんですよ」
「……おい、オレにのろけ話か? オイコラテメボケ、バカにしてんのかぁ!?」
「あ、いえ、誤解です! ただ、どれだけリナが可愛いかを伝えたくて……」
「それが余計なんだよ! オレはもう帰るからせいぜいリナちゃんと楽しいクリスマスを過ごせよ! くそぉっ!!」
 タイムカードを押すと、僕を一睨みして帰っていった。あまりに一瞬の出来事で、僕は謝罪の言葉すら伝えらず立ち尽くした。
 いや……謝ったら余計に怒られるのかもしれない。
「お疲れ様でした!」
 さて、八時を過ぎたことだし僕も――。
「佐竹(さたけ)君、ちょっとこっちにいらっしゃい」
「あ、はい」
 城下(じょうした)さんが僕を呼んだ。黒い前髪を左右に振って、分かれ目を直している……この動作をするときは虫の居所が相当悪い。たいがい社員が怒られるときはこういう動作をする。危険予知の動作――とでも言おうか。
しかし、上司に呼ばれることによる緊張よりも、時間の経過が気になって仕方がない。
「あれ、佐竹なんかやらかしたのか? 城下さんにセクハラ……なーんて、佐竹がやるはずもないか」
 同僚たちもめいめい楽しそうに帰り仕度をしながら、イブ特有のテンションでからかってくる。
「ははは。おもしろい冗談ですね」
「おもしろくもなんともないわ、あんたたちはさっさと帰りなさい」
 ギラリと城下さんの眼鏡が光る。お、おっかないです!
「は、はいすいません! ちょっと冗談が過ぎたみたいだ。おっし、それじゃお先に失礼します」
「はいはい、おつかれさん……」
「じょ、城下さん……さっきのは冗談ですからね? ……それじゃ、また明日」
 ガチャリと音を立てて、事務所から人気がなくなる。残されたのは僕と城下さんの二人だけ。城下さんと僕――まるで白と黒。
 静まり返った事務所のなか、背中合わせのデスクで城下さんの言葉を待つ。綺麗なうなじ……前髪は長いけど、後ろは短め。大好きなリナと同じスタイルだ。
 しかし……どうにかしてこの場を去るにしても、遅刻は確実。リナ、ごめんなさい……。
「さぁ、佐竹君は要領いいし、言いたいことは分かるわよね?」
「い、いえ、なんでしょうか? 分かりかねますが……」
「……はぁ。率直に言うわ、残業よ。来週の祝日用のチラシ作ってちょうだい」
「え、来週のチラシ? そんなに急ぐ必要があるのでしょうか?」
 話が急すぎる。それに、チラシ製作は島さんの仕事のはず。入社したてのころは何度かやったこともあったが、『チラシ作りの島』の異名を持つ彼にまかせたほうが断然早いはず。
「……何? 上司に文句つける気?」
「ですが……今日はイブですし……」
「関係ないでしょう、仕事なのよ!? 佐竹君はイブだからって上司に逆らうのね!? 残業っていったら残業なの! ざ・ん・ぎょ・う!」 
「……はい」
こんな理不尽なことってあるのだろうか。僕がどれだけこの日を待ち望んだことか……。リナとケーキを食べたい、リナの笑顔が見たい、リナを抱きしめたい……。
「早く取り掛かりなさい! 私だって残業なのよ!?」
「……わかりました」
 仕事……仕事なんだ。仕事をやめてしまったら、リナをどうやって養えばいい。ただでさえ安月給だと言うのに、リナを困らせるようなことは慎まなければ……。
「…………」
 デスクに戻り、作業をする……。
同じように後ろで作業をする城下さんを、これほど憎く感じたことはなかった。今日に限って、僕に冷たいというか……気のせいだろうか。
 作業をする。
作業をする。
作業をする………………が、ぜんぜん進まない。
 ……リナが心配だ。
寂しくて泣いてはいないだろうか。
待ちくたびれて怒ってはいないだろうか。
ちゃんと部屋を暖かくしているだろうか。
――ああ、あの茶色のアホ毛を溶かしてあげたい……リナ、リナリナ!
「…………」
 脱走しよう。
 それしかない。リナに嫌われるなんて考えられないし、もし強盗にでも入られていたら!
 ……よし、作戦実行だ。まずは定番中の定番、仮病作戦開始!
 ――ガシャーン!
「な、なにどうしたの佐竹君!?」
「城下さ……っく……うぁ……」
 イスから転げ落ちて、大げさなくらいに呻く。見事なまでの演技力に、城下さんは当然ながら驚いたようだ。
「あた、ま……あたまが……ぅぅ……」
「ほ、本当! なんで、急にそんな……」
 よしよし、いい感じ。ここで起き上がって、残業を断れば……。
「救急車! 待ってて、いま救急車呼ぶから!」
 え、えぇ!?
「ちょ、そこまでひどくないです……から」
 それはまずいんじゃないだろうか。リナにも電話がいくし、心配をかけることになる。……というより、仮病で救急車はまずいです!
「ううん、もしものことだってあるのよ!? すぐだからじっとしてなさい!」
 携帯を持ち出し、電話を掛けはじめる。番号は……119なのか? 119だけはまずい! 
「あ、もしもし? 大変なんです! うちの、うちの会社の佐竹が――」
「――う、嘘なんです! すいません嘘なんです!」
 これ以上芝居を続けてはいられなかった。
正座をして、許しを請う。
「城下さんすいませんでした!」
「……はぁ」
 それに対しての反応は、ため息一つだった。
「どうせそんなことだろうと思ったわ」
「……え?」
「残念だったわね、いま掛けたのは私の自宅」
「あ……あはは、ははは」
 ――バシン。
 やっちゃった、と思ったときには頬に痺れが走っていた。
「あははじゃないわよ、ったく仮病なんて使って……」
「すいませんでした……本当に申し訳ないです」
 まともに顔も見られなかった。
社会人がこんなことをして、ただで済むはずがない。いったいどんな罰が下されるのか、それを僕は小さくなって待つしかなかった。
「…………もう、早く終わらせてくれないと、私も帰れないでしょう? やってやって」
 城下さんはイスに深く腰掛けて、ギィギィと鳴らした。
「…………」
「………………はい」
……どうやら、今回は見逃してもらったらしい。
「…………」
 ………………でも、僕は帰る。帰ってみせる。
脱走の決意は揺るがなかった。
 リナの顔が浮かんでは消え、消えては浮かんでいく。独り寂しそうにこたつでテレビを見ている……そんなことはさせたくないんだ!
「……やってやりますよ」
 決意が言葉になった。城下さんには絶対に聞こえないように小さくつぶやいたつもりだったが、真後ろのデスクということもあり――。
「そう、その意気だわ」
 聞こえてしまっていた。ちょっと焦ったが、やる気を出したと捉えられたようで助かった。
 …………次は、ヨイショでいこう。持ち上げて、どうにか帰らさせてもらうんだ。
なんか自暴自棄になりつつあるような……と、とにかく実行!
「城下さんのその眼鏡、すごく似合っています」
「…………」
「スタイルもいいですし……あ、いやらしい目で見てるわけじゃないですよ」
「……バカにして楽しい?」
「い、いえ違いますよ。美人だし、スーツも似合いますし、男の僕より給料もらっていますし」
「なに?」
「総合すると、尊敬しています」
「……尊敬? ふーん、尊敬……か……尊敬……ねぇ」
 城下さんは口の中で転がすようにして『尊敬』を繰り返していた。ヨイショが効果を示してきたのだろうか。
「ねぇ、佐竹君ってイブは誰かと約束があるの?」
 意外な質問だった。
 僕は『リナ!』と即答したかったが、城下さんに彼氏がいなかった場合怒られそうなのでためらわれた。
「私はね、ない。だから自ら進んで残業をしたの。みんなには出世したいからって思われているのかもね」
 わかりやすいくらいの苦笑が、なんだか痛々しい。
「……そうなんですか。でも、城下さんは容姿端麗でエリートですし、いくらでも男なんてできそうですけど……」
「…………」
「あ、でも釣り合いの取れる男がなかなかいないですね。確かに、そういう面では苦労しますね……なんたって美人でかわい……」
 ――ギー。
 突然イスが回転して、作業を続けていた城下さんがこっちを向いた。
「美人美人美人美人美人美人!? バカにしてるんだったらもう帰っていいわよ! さっきから聞いていればみえみえのお世辞使って!」
 み、ミスってしまった。プンプンに怒っていらっしゃる。どうにか弁解しなければ。
「バカになんてしていません。城下さんは美人ですし、その髪型も僕は可愛いと思います」
 髪型は本心だった。僕の一番好きな髪形……襟足は短く、前髪は分けて目にかかるほどの長さ。リナと同じ髪型だ。
「こ、この髪型……こんな髪型最悪だわ! もうそろそろ切るわよ!」
「そんなこと言わないでください、すごく似合っていますから」
「……佐竹君はそうやって……そうやって髪型だけを褒めるのね」
「え?」
「この間見たのよ、女の子と二人で歩いているの。楽しそうだったわ」
「あ……それは彼女のリナです」
「それがイヤだったの! 私は、私は……私はあなたが好きだったのに!」
「!」
 僕はいま、どんな顔をしたんだろうか。鏡でもあれば、自分の驚きぶりに見入ってしまったに違いない。
 一瞬、リナで一杯の頭に城下さんが入り込んできた。それだけショッキングだった。上司である城下さんが……まさか……。
「この髪型だってそのときに変えたの! 振り向きもしてくれないって分かっていたわ! 今日だって、ただあの子の元に行かせたくなかっただけ! ムリに仕事作って、残業させて、そこまでしてあなたと一緒にいたかったのよ! イブくらい……イブの日くらい……!」
「…………」
 一気に捲くし立てられ、僕はようやっと理解の幅が広がる感覚を覚えた。
 残業させてまで僕と一緒にいたいという気持ちには動揺した。
「あなたはいつも私の髪型を見ては夢見心地だったわ。あの子のことを思い出してたんでしょう? 所詮、私のしたことなんて全部あの子の姿を彷彿とさせていただけなんだわ」
「…………」
 何も言えなかった。その通りだったからだ。城下さんを見て、リナを連想したことは何度もあった。
 僕は城下さんの純粋な気持ちを踏みにじり……それに気づいてさえいなかった。
「ねぇ怒ってよ、この哀れな女を。地位に物を言わせてあなたのイブを台無しにしたのよ?怒ってるんでしょ?」
「……笑えるわけがないじゃないですか」
「それは上司だから?」
「違います!」
「僕のためにしてくれたことを、笑えるわけないじゃないですか!」
「僕は彼女……リナがいて、城下さんとは付き合えませんけど……」
「今日はイブです。城下さんの望むことを、プレゼントしてあげます」
 本心。
だってそれは、城下さんを傷つけてしまった償いでもあるのだから。
「…………本当に?」
「サンタは嘘をつきません」
「じゃ、じゃあ……えっと……だ、抱きしめて欲しい」
 いつも凛とした態度を見ているからか、おどおどと慌てる姿がすごく女の子っぽかった。
「わかりました」
 リナ、ごめん。本当に……ごめん。
 僕のほうから近づいて、城下さんの身体を抱きしめた。いつも大きく感じたその身体も、やっぱり女性だ。髪が口元に当たって、再度リナを思い出す。
「……寒い夜のはずなのに、温かい」
「それはよかったです」
「……ずーとこうされたかったの。胸が痛くて……あなたに抱きしめてもらいたかったの……」
 それから十秒ほど、無言で抱きしめあっていた。
「…………」
「ねぇ、キスは……ダメ?」
 リナ。リナがいるんだ。
「……すいません。リナに叱られてしまいますから」
「……はは……私もその子みたい産まれてくれば、誰かに愛してもらえたのかな……」
 城下さんは涙ぐんでいた。そこまで僕を好きだったのか……。
「……僕はその役目は果たせないですけど、城下さんみたいな素敵な人なら、僕なんかよりもっと素晴らしい人に愛してもらえます」
「君より素晴らしい人なんて……いままで見たことがないわ」
 そんなことを言わないでほしい。
 悪いけど。
自分勝手だけど。
少しでも、リナ以外の女性を想いたくはない。
「すいません」
「佐竹君が謝ることなんてないよ……うん、もういいわ」
 ゆっくりと城下さんが離れた。そこにあるのは上司と部下、その関係だけだ。
 ――すべてが三分前に戻った。
「佐竹くん、お疲れ様」
 そっけなく言った城下さんの目には、まだ涙の跡が残っていた。
「メリークリスマス、城下さん」
「メリークリスマス、佐竹君」


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